なら春子 ピアニスト/作曲家
なら春子は神奈川県出身。5歳でピアノを始め、子供の頃はクラシック音楽やポップス、そして祖父の謡う謡を聴いて育つ。小学生の時、ピアノ教師の高木鳩子に音楽的才能を見出され、音楽の道に進む事を勧められる。10代でジャズに出会いその音と熱い魂に魅了され、それ以来ジョン•コルトレーン、ビル•エバンス、マイルス•デイビスなどジャズの巨匠達のレコードを熱心に聴く。次第にならはレコード演奏を真似ピアノで弾くと同時にジャズ風の作曲も始め、東京でグループを組みジャズを演奏するようになる。
音楽への情熱と好奇心は、なら春子をニューヨークへ向かわせた。マンハッタンに最初に足を踏み入れた瞬間、ならは「ここは"自分の場所"だ」と感じた。ニューヨークでは、毎晩のようにジャズクラブに通い音楽を聴く一方、マンハッタン音楽院ピアノ科に入学。ゼノン•フィッシュバインに師事し、卒業後はジュリアード音楽院にてクラシックの作曲を学ぶ。レッスンでは、ケニー•バロン、リッチー•バイラーク、ジョアン•ブラッキーン、バリー•ハリス、ブルース•バース、ノーマン•シモンズにジャズピアノ、またデビッド•バーガーにジャズ作曲を、更には吉田房子より日本の伝統音楽と琴の演奏も学んだ。
音大在学中、ニューヨークでプロのジャズミュージシャンとして活動を始めたなら春子は、1983年にリンカーンセンターで開催されたウィメンズ•ジャズ•フェスティバルで、ダンサー兼歌手アツコ•ユーマとトランぺッターのドン•チェリーと共演する。翌年、彼女の才能は音楽プロジューサーのコビ•ナリタによって見出され、アジアン/アジアン•アメリカン•ジャズフェスティバルに於いて、クリフォード•ジョーダン、藤原清登、ビリー•ハートのメンバーでオリジナル曲を演奏し、自身のグループデビューを果たした。またなら春子はバスター•ウイリアムス、ルーファス•リード、メイジャー•ホーリーなどベテランベーシスト、そして当時の才気溢れる若手ジャズメン、ピーター•ワシントン、ロニー•プラキシコ、ケニー•デイビス、アイラ•コールマンらとワン•フィフスに於いて毎週末デュオ演奏しており、これもデビュー直後の音楽活動の一つとして特筆される。
現在まで、なら春子は数多くの著名なミュージシャンと共演している。フランク•ウエス、ケニー•ギャレット、ビリー•ヒギンズ、ベン•ライリー、エディー•ヘンダーソン、カール•アレン、デニス•アーヴィン、マイケル•フォーミネック、ナナ•バスコンセロス、ラルフ•ムーア、増尾好秋、デニス•チャールス、トミー•キャンベル、ジョン•ブレーク、ケビン•ユーバンクス、ジャミール•ナッサー、バディー•ウイリアムス、ウイリアム•パーカー、鈴木良雄、ウォレス•ルーニーなど。また、ケニー•ギャレット、メイジャー•ホーリー、ビリー•ハート、藤原清登のグループ•メンバーとしてもステージに立ち、歌手のマリオン•コーウインや天野昇子の伴奏もしている。
レコーディングでは、90年にケニー•ギャレットをフィーチャーしたデビューアルバム「マイ•フェイバリット•シングス」をポニーキャニオンよりリリース。また、マイルス•デイビス追悼アルバム「MD」 にも参加し、ケン•ウェッセル、ロニー•プラキシコ、スティーブン•モスと共演。さらにロニー•プラキシコの3枚のアルバムや、藤原清登、天野昇子、ダグ•ホワイトのアルバムでもなら春子の演奏を聴くことができる。
なら春子は、世界の有名ジャズクラブやコンサートホール、またフェスティバルで演奏している。ブルーノート、ブラドリース、バードランド、ニッティング•ファクトリー、レノックスラウンジ、キタノ、ボディー&ソウル(東京)、ダグ(東京)、カーネギーホール、ウィットニー美術館、ショムベルグ•センター、セイント•ピータース教会、セイント•ジョン大聖堂、サントリーホール(東京)、ムジカ•オッジ(ミラノ)、日本文化会館(ローマ)、5.1スタジアム•文化とスポーツの平和の祭典(平壌)、プエルトリコ音楽院(サンワン、プエルトリコ)、トリニダード大学(ポート•オブ•スペイン、トリニダード)、日本祭(コパン•ルイナス、ホンジュラス)、パナマ大学(パナマ•シティー、パナマ)など。
80年代の終わり頃、学習プロセスと音楽教育に興味を持ち始めたなら春子は、ニューヨークのコロンビア大学大学院に入学し、99年に音楽教育学博士号取得。在学中の92年より同大学で25年間教鞭を取り、ピアノ、シンセサイザー、音楽教育研究のコースを指導、99年には非常勤助教授に任命された。ならはコロンビア大学以外にもニュースクール大学、ペンシルバニア州立大学でも学生を指導。学術研究分野としての即興演奏、ジャズ、ジャズ教授法、アフリカ音楽にも興味を持ち、著書には、「ジャズ•フレージング•ブック」(全音出版)と「フレージオロジー」(UMI出版)がある。
なら春子は、ポール•ブードレー、クインシー•デイビスとの自身のトリオとして数年間キタノで定期的に演奏した後、2005年ニューヨークのジョニバ•ダンス&ドラム•センターにて、アフリカのドラムを習い始める。ジョニバ•ムフレット、バド•ディオマンデ、マンゲ•シラ、ローレン•カマラ、ムサ•トラオレ等に師事し、アフリカ音楽研究とドラム研修のためマリ共和国のバマコを5回訪問する。そこで元マリ国立舞踏団のセガ•シセ、マンベ•シソコ、マッチェ•トラオレ、ドリッサ•コネに師事。また、ギニアのドラムの巨匠、ファマデュー•コナテとママディー•ケイタのワークショップにも参加する。2006年ニューヨークのアフリカンダンス•クラスでは、西アフリカ出身のベテランドラマーに混り定期的にドラム演奏をするようなった。その頃よりならのオリジナル曲は以前に比べアフリカ色が強くなり、自身のグループにアフリカのドラム奏者を加入、曲作りの上でもアフリカン•ドラムやそのリズムが使われるようになる。また現在、ならはコンサートでピアノとジャンベ(アフリカの太鼓)の両楽器を演奏している。
これまでなら春子は、文化交流大使として様々な国で文化交流事業に参加してきた。93年国際交流基金の招きにより、ローマの日本文化会館でソロピアノコンサートを行い、94年にはユーマ&カルチャー•エクスチェンジの一員として、アメリカからモハメド•アリ等格闘家と共に招待され、朝鮮民主主義人民共和国、平壌での「スポーツと文化の平和の祭典」に参加し演奏を披露した。また、アメリカ国内のジャパン•フェスティバルでも自身のグループを率いて演奏。2007年には国際交流基金と日本大使館の招きで歌手のジノ•シトソンと共にトリニダード•トバゴ、プエルトリコ、ホンジュラス、パナマを訪れ、コンサートとワークショップを行った。その折にパナマ大学やプエルトリコ国立音楽院などで教鞭を取り、音楽大学生や一般の聴衆にジャズ、即興演奏、アフリカ音楽、日本の音楽についての講義を行った。2008年には増尾好秋、ジノ•シトソンのトリオでエルサルバドル、コスタリカ、ドミニカ共和国へ同様の文化交流ツアーを行い、ドミニカ共和国国立劇場をはじめ様々な所で公演し好評を博した。
なら春子の音楽は世界のメディアで高く評価されている。「アドリブ」誌では「研ぎ澄まされた類い稀なる感性と気品ある音楽性」を絶賛され、音楽評論家のニラン•ジャンジャベリには、「なら春子の深い情感を秘めたピアノタッチは卓出したものである」と評された。また元スイングジャーナル誌編集長で音楽評論家の岩浪洋三は、デビューアルバム「マリ•フェイバリット•シングス」をベスト•ジャズアルバムの一つに選び、ならのピアニストと作曲家としての才能を賞賛、「文芸春秋」誌は、海外でリーダーシップを取る日本人プロフェッショナル「日本国際競争力100人」の一人として、音楽家なら春子をノミネートした。
2013年には、アルバム「ドラムツリー」が発売され、8曲のオリジナル曲が含まれたこのCDでは、巨匠フランク•ウエス、ジノ•シトソン、ジョニバ•ムフレット、ムサ•トラオレ、ロニー•プラキシコ、ポール•ブードレー、クインシー•デイビスが共演。また、2018年には、ベースのジム・コーター率いるピアノトリオ、Near & Farのアルバム「アクロス・ザ・ウォーター」で演奏を披露している。
2018年に、41年間暮らしたニューヨークから東京に拠点を移し、新たな環境で音楽活動と音楽教育活動を続けている。